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忘れっぽいので、未来の自分への申し送り事項。主に読書感想文を書きます。

美しい音楽を聞いているような物語「マチネの終わりに」平野啓一郎

 

マチネの終わりに

マチネの終わりに

 

 

まるで、美しいクラシック音楽を聞いているかのごとく、読みすすめました。

 

毎日新聞とnoteで連載されていた、平野啓一郎の長編小説です。物語は、クラシックギタリストの蒔野と、海外の通信社に勤務する洋子の出会いから始まります。初めて出会った時から、強く惹かれ合っていた二人。しかし、洋子には婚約者がいました。やがて、蒔野と洋子の間にすれ違いが生じ、ついに二人の関係は途絶えてしまいます。互いへの愛を断ち切れぬまま、別々の道を歩む二人の運命が再び交わる日はくるのかー

中心的なテーマは恋愛ではあるものの、様々なテーマが複雑に絡み合い、蒔野と洋子を取り巻く出来事と、答えのでない問いに、連載時の読者は翻弄されっぱなし。ずっと"「ページをめくりたいけどめくりたくない、ずっとその世界に浸りきっていたい」小説"を考えてきた平野啓一郎が贈る、「40代をどう生きるか?」を読者に問いかける作品です。

 

 

 面白いのは、二人が会ったのは、たったの3回だけ。最初に出会った夜に、お互いに強烈な印象を残し、強く惹かれ合います。蒔野と洋子は40代。洋子には、アメリカ人のフィアンセがいます。お互い、仕事やパートナーなど、それぞれ守るものがある立場。お互いへの愛情のままに動いてもいいのか、深い葛藤があります。

 

 そして、冒頭でも書いた通り、まるで音楽を聞いているかのような物語。二人のセリフや心情描写がとても美しいです。蒔野は音楽家、洋子の父は映画監督、ということもあり、物語の中には芸術や文化のテーマが折り重なっています。

 

洋子は、蒔野をこのように表現します。

「ー彼は、神様が戯れに折って投げた紙ひこうきみたいな才能ね。空の高いところに、ある時、突然現れて、そのまますーっと、まっすぐに飛び続けて、いつまで経っても落ちてこない。……その軌跡自体が美しい。」

 美しい表現がたくさん。

一方、蒔野は、洋子への想いをこのように表現しました。

 世界に意味が満ちるためには、自分のためだけに存在するのでは不十分なのだと、蒔野は知った。彼とてこの歳に至るまで、それなりの数の愛を経験してはいたものの、そんな思いを抱いたことは一度もなかった。洋子との関係は、一つの発見だった。この世界は、自分と同時に、自分の愛する者のためにも存在していなければならない。憤懣や悲哀の対象さえ、愛に供される媒介の資格を与えられていた。そして彼は、彼女と向かい合っている時だけは、その苦悩の源である喧噪を忘れることができた。

二人の関係性。強烈に惹かれあう二人の物語、という構造は、先日読んだ三浦しをんさんの「ののはな通信」とも通じるものがあるな、とも思いました。相手の存在があるからこそ、自分も生きていける。

 

作者の平野さんは、特設サイトで以下のように語っています。

何かとくたびれる世の中ですが、

小説を読むことでしか得られない精神的なよろこびを、改めて、

追求したいと思っています。

 そして、「何かとくたびれる世の中」は蒔野のセリフでも感じられました。

 「ーー生きることと引き換えに、現代人は、際限もないうるささに耐えてる。音ばかりじゃない。映像も、匂いも、味も、ひょっとすると、ぬくもりのようなものでさえも。……何もかもが、我先にと五感に殺到してきては、その存在を目一杯がなりたてて主張している。……社会はそれでも飽き足らずに、個人の時間感覚を破裂させてでも、更にもっと詰め込んでくる。たまったもんじゃない。……人間の疲労。これは、歴史的な、決定的な変化なんじゃないか?人間は今後、未来永劫、疲れた存在であり続ける。疲労が、人間を他の動物から区別する特徴になる?誰もが、機械だの、コンピュータだののテンポに巻き込まれて、五感を喧噪に直接揉みしだかれながら、毎日をフーフーいって生きている。痛ましいほど必死に。そうしてほとんど、死によってしか齎されない完全な静寂。……」

 蒔野はそれを、もう何年にもわたって、舞台上で感じてきていた。

この本は、五感の中でも、特に聴覚に響き渡る物語でした。読み終わったあとは、クラシックのコンサートが終わった直後のような、一瞬の静寂に包まれたような気がしました。思わず、拍手をしたくなる読後感でした。

 

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