自殺 末井昭
植本一子さんの「かなわない」を読んで気になった作者さん。
一昨年ぐらいに読んだのをブログに書くために再読。
タイトルは物々しいけど中身はひょうひょうと軽やかだった。
表現するということは、自分の体験をフィクション化することで、そうすることによって、心に棘のように刺さっていたものがとれていくような気がします
とあるように、わたし自身も感想を書くことで自分の体験を客観視して、すっと心が軽くなるような気がした。
世の中には過剰なかっこよさ、「こうあるべき」何か、意識の高いものがあふれていて、そういうものにどこか気持ち悪さを感じていたのだけど、この本を読んで、そこから、一歩身を引くということもあっていいのかなと思った。全然、こうあるべきものなんて一つもないんだし。
最近病気をわずらい入院した友人が「今年は働かないよ!」って笑顔で言っていて、そうそうそういう感じ!と思った。その体験とこの本がなんだか繋がってきた。
明日からまたがんばってみようかな、と思える一冊。
【読みながら付箋つけた箇所】
・悩んでいたら、「 死のうと思っている」と周囲に言いふらして、窓を開けること
・人は自分のことしか考えられないようにできている、とも思う
・人には「無条件な自己肯定感覚」があり、それを元に現実感覚を生きている
・自分の手は汚さないで、自分たちに都合の悪いもの、不安になるものを排除しようとする意思を、僕は「世間サマ」と呼んでいるのですが、近年頓に息苦しさが増している原因は、世間サマが増長しているからではないでしょうか。
・休み明けの月曜日はつらいかもしれません。そういうときは反対側のホームに行き、逆方向の電車に乗ることです。
・聖書に「何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思い患うな。命は食物にまさり、からだは着物にまさ流のではないか」(マタイ6-25)という言葉があります。そういう余計なわずらいを捨てれば、お金はそれほど必要ではありません。不安と欲望で必要経費が上積みされているだけのことです。
・自分がよりよく、何か価値のあることをやることを考えない人間にとっては、人の気持ちだけを考えて一生暮らすことになるでしょう。
・「友」というのは、単に友達ということではなく、相手の中に自分自身が見え始めている他者のことだ
・表現するということは、自分の体験をフィクション化することで、そうすることによって、心に棘のように刺さっていたものがとれていくような気がします