初めて誰かの愛に触れた時。「ファーストラヴ」島本理生
直木賞受賞作、「ファーストラヴ」です。
タイトルからラブストーリーを想像しましたが、全然違いましたね。
父親を殺してしまった娘をめぐり、様々な人の罪があぶりだされていくストーリーです。
娘は就活中のアナウンサー志望の女子大生、聖山環奈。父は画家で美術学校講師の聖山那雄人。環奈はテレビ局の就職試験が終わったそのあとで、那雄人が勤める学校へ向かい、父を刺します。その後血まみれになって多摩川沿いを歩いているところを、逮捕されます。だが、奇妙なことに環菜自身が「動機が分からない」といいます。臨床心理士の真壁由紀は、この事件に関する本の執筆を依頼され、環奈の弁護人となった義弟の庵野迦葉と共に、環奈やその周りの人たちとの面談を重ねていきます。
この物語は、面談のパートと、環奈の裁判のパートの2つに分けられます。
面談のパートでは、環奈の家庭環境が明らかになります。絶対君主の父親。父親に従う母親。母親は、娘を心配するどころか、検察側についてしまいます。そんな抑圧された家庭で育った環奈は、自尊心が低く、両親を安心させるために本心を隠していました。精神が病んでしまい、自傷を繰り返すようになります。
真壁由紀も父親との関係性に問題がありました。面談を重ねるうち、自分の過去とも向き合っていきます。
自分自身が、過去に臨床心理士に救われたように、今度は自分が救う番と由紀は言います。
由紀は、現在勤務している病院に初めて訪れたとき、「サバイバー」という言葉に出会っています。
「サバイバー、という言葉に出会った。少女の頃から理由もなく暗渠の中をさ迷っているような感覚を抱いていた私はなぜかひどくその言葉に惹きつけられた。その理由を知ったのは、もっと後だった。
名付けとは、存在を認めること。存在を認められること。
院長の著書に出会って初めて、自分が存在していることを認められた気がした。
今度は私たちが環奈の心のうちにある闇に名前をつけなくてはならない。さかのぼって原因を突き止めることは、責任転嫁でもなければ、逃げでもない。今を変えるためには段階と整理が必要なのだ。見えないものに蓋をしたまま表面的には前を向いたように振る舞ったって、背中に張り付いたものは支配し続ける。」
私は、「サバイバー」という言葉を初めて知ったのですが、日本トラウマ・サバイバーズユニオンによると、"虐待や災害など、さまざまな原因から生じた傷を、心や身体に負っても、なんとか生き延びている人"とあります。
由紀も環奈も、同じサバイバーでした。
由紀は真摯に、環奈に向き合います。自分の過去の姿を重ねているかのように見えます。
むごい家庭環境で、救いようが無いのでは?という状況。絡まった糸をほぐすように、ひとつひとつ由紀は状況を整理していきます。そして、どんどん環奈は由紀へ心を開いていきます。
そして、後半の裁判のパートで、環奈は自分の言葉を取り戻し、裁判ではしっかりとした口調で証言をしていきます。
ミステリーもの、家族もの、心の再生...など色んな見方ができる「ファーストラヴ」。
私は、この物語を、人の話を聞き、心を整理していく、臨床心理士の仕事の物語として受け取りました。
先日読んだ「ラブという薬」の著者、医師・臨床心理士の星野概念氏がこの小説に助言をしているようです。「ラブという薬」でも、傾聴の大切さが書かれていました。
治すことではなく、相手の心を整理していく。ずっと話を続けていき、相手の「闇」に対して名前をつけていく。
裁判終了後に、環奈が由紀へ送った手紙にはこうありました。
「苦しみ悲しみも拒絶も自分の意思も、ずっと、口にしてはいけないものだったから。どんな人間にも意思と権利があって、それは声に出していいものだということを、裁判を通じて私は初めて経験できたんです。自分の感情や心のこと、まだまだわからないことがたくさんあります。今はそういうものを、ほかの誰でもなく自分で書いてみたいと考えています。」
由紀の真摯さに触れて、自分の感情を尊重していいんだと環奈は知りました。
タイトルの「ファーストラヴ」にあるものは何なのか。いろんな解釈があるかと思いますが、私は、「他人からの純粋な愛に初めて触れること」「自分の存在価値を自分で認めること」という意味なのかなと思いました。
書くために書くのではなく、考えるために書くのだ。「20歳の自分に受けさせたい文章講義」古賀史健
「嫌われる勇気」の古賀史健さんによる文章講義。「20歳の自分に受けさせたい」というタイトル、うまいなぁ、と思いながら手にとりました。この本の途中で、タイトルの仕掛けは明らかになります。
目次
自分の頭の「モヤモヤ」を言葉にするには
自分の考えを外に出せないなぁ、うまく言葉にできないなぁと思うことが多いです。その場で思ったことを出せず、なんであの時言えなかったんだろうということの連続。
それに対しては、古賀さんはこのように答えを出しています。
- 文章を書こうとすると、固まってしまう
- 自分の気持ちをうまく文章にすることができない
1で悩んでいる人は、まだ頭の中の「ぐるぐる」を整理できていない状態だ。文章とは頭の中の「ぐるぐる」を"翻訳"したものだ、という発想が欠如している。まず必要なのは"翻訳"の意識づけだろう。
2で悩んでいる人は、「ぐるぐる」を誤訳してしまっているだけだ。こちらはもっと具体的な"翻訳"の技術が必要だろう。
われわれは、自分という人間の"翻訳者"になってこそ、そして言いたいことの"翻訳者"になってこそ、ようやく万人に伝わる文章を書くことができる。書けない人に足りないのは、"翻訳"の意識であり、技術なのだ。
映画や本を見たあとに、「面白かった」の一言で終わればそれでいいのですが、けど私は、どこが面白かったのかを追求したい。登場人物なのか、ストーリーなのか、音楽なのか、背景なのか。その、「面白かった」を明らかにすることが、書く技術。
古賀さんは、目の前に20歳の自分がいたら、根本的なこのようなアドバイスを送りたいと言います。
「考えるために書きなさい」と。
書くことは考えることであり、「書く力」を身につけることは「考える力」を身につけることなのだ。"書く"というアウトプットの作業は、思考のメソッドなのである。
考えるために書く、思考メソッド
この思考のメソッドについて、古賀さんが現場で15年かけて蓄積した技を惜しげも無く伝えてくれています。その一例を紹介します。
「読者は文章を"眼"で読んでいる」
書き手の側も聴覚的リズムを気にする前に、
「視覚的リズム」を考えなければならない。
これを見てパッと頭に浮かんだのが、
「ほぼ日刊イトイ新聞」や「北欧、暮らしの道具店」のメルマガ。
この媒体の文章って、改行位置が早くて視覚的圧迫感が少ない。
そのため、テンポよく読み進めることができています。
これが視覚的リズムか!と納得しました。
・この文章を読んで映像が思い浮かぶか?
ダメな文章を読んでいて、もっとも辛いのは「文字だけを追わされること」。
面倒な細部を描写することで、映像が浮かんでくる。
・頭の中を可視化するために、紙に書き出す。
「ぐるぐる」を可視化するには、紙に書き出すこと。これに尽きる。
まず、10個キーワードを書く。
もう10こはそれ以外のことを書いて、文章の伸びしろを作る。
文章の面白さは「構成」で決まる。
文章の「カメラワーク」を考えると、文章全体にメリハリがつき、リズムがよくなります。
1.導入(=序論)・・・客観のカメラ
→客観的な状況説明
2.本論(=本論)・・・主観のカメラ
→序論に対する自分の意見・仮説
3.結論(=結論)・・・客観のカメラ
→客観的視点からのまとめ
作者の古賀さんはもともと映画監督を目指していたそうです。
文章の「視点」を意識するということは、そういうバックグラウンドがあったからこその納得力だと思いました。
構成を考えるための具体的方法
・頭の中の「ぐるぐる」を図解・可視化するために、絵コンテを書く。
図解をすることで頭がクリアになる。図解するメリットとしては、「流れ」と「つながり」が明確になること。
・文字量は頭で数えるのではなく、"眼"で数える習慣を作る。
- ワープロソフトの文字数と行数を固定して、1ページあたりの文字量を覚える
- 行数(行番号)を表示させるか、グリッド線(罫線)を表示させる
- 何行で400字になるかを頭に入れておく
1ですが、古賀さんは「40文字×30行=ページ1200字」と文字組を固定して原稿を書いているそうです。毎回同じ文章量で書いていった方が、構成力が身につくそう。
10年前の自分に伝えよう
この本のタイトルは「20歳の自分に受けさせたい文章講義」です。
著書の古賀さんは、「20歳の自分」の椅子に座ってこの本を書いたそうです。
「10年前のあなたに向けて書こう」と古賀さんは提案しています。
なぜなら、今、この瞬間も日本のどこかに「10年前のあなた」がいるから。今を生きている「見知らぬ誰か」の椅子に座る、一番確実な方法だからです。
ここで、「20歳の自分が受けたかった文章講義」の仕掛けが明らかになりました。
文章術本で、「読者を決めよう」とよく書かれていますが、
読者を決められない時は、「10年前の自分に対して書く」ということは、誰にとっても当てはまるな、と。
自分の中に 文才を探さない
まとめとして、「いい文章を書くのに、文才など全く必要ない」と心強いメッセージを古賀さんは残しています。文才を探すというのは、諦めの材料を探しているだけだ、と。
また、「いい文章とは、読者の心を動かし、その行動も動かす文章」とおっしゃっています。さらに、「人生を動かす文章」も書けたら最高ですよね。
この本は、古賀さん本人が、文章において右も左も分からなかった20歳の頃の自分にでも分かるように、分かりやすい文章で書いてあります。
そもそも、文章を書くって何か?ということが理解できる一冊でした。
美しい音楽を聞いているような物語「マチネの終わりに」平野啓一郎
まるで、美しいクラシック音楽を聞いているかのごとく、読みすすめました。
毎日新聞とnoteで連載されていた、平野啓一郎の長編小説です。物語は、クラシックギタリストの蒔野と、海外の通信社に勤務する洋子の出会いから始まります。初めて出会った時から、強く惹かれ合っていた二人。しかし、洋子には婚約者がいました。やがて、蒔野と洋子の間にすれ違いが生じ、ついに二人の関係は途絶えてしまいます。互いへの愛を断ち切れぬまま、別々の道を歩む二人の運命が再び交わる日はくるのかー
中心的なテーマは恋愛ではあるものの、様々なテーマが複雑に絡み合い、蒔野と洋子を取り巻く出来事と、答えのでない問いに、連載時の読者は翻弄されっぱなし。ずっと"「ページをめくりたいけどめくりたくない、ずっとその世界に浸りきっていたい」小説"を考えてきた平野啓一郎が贈る、「40代をどう生きるか?」を読者に問いかける作品です。
面白いのは、二人が会ったのは、たったの3回だけ。最初に出会った夜に、お互いに強烈な印象を残し、強く惹かれ合います。蒔野と洋子は40代。洋子には、アメリカ人のフィアンセがいます。お互い、仕事やパートナーなど、それぞれ守るものがある立場。お互いへの愛情のままに動いてもいいのか、深い葛藤があります。
そして、冒頭でも書いた通り、まるで音楽を聞いているかのような物語。二人のセリフや心情描写がとても美しいです。蒔野は音楽家、洋子の父は映画監督、ということもあり、物語の中には芸術や文化のテーマが折り重なっています。
洋子は、蒔野をこのように表現します。
「ー彼は、神様が戯れに折って投げた紙ひこうきみたいな才能ね。空の高いところに、ある時、突然現れて、そのまますーっと、まっすぐに飛び続けて、いつまで経っても落ちてこない。……その軌跡自体が美しい。」
美しい表現がたくさん。
一方、蒔野は、洋子への想いをこのように表現しました。
世界に意味が満ちるためには、自分のためだけに存在するのでは不十分なのだと、蒔野は知った。彼とてこの歳に至るまで、それなりの数の愛を経験してはいたものの、そんな思いを抱いたことは一度もなかった。洋子との関係は、一つの発見だった。この世界は、自分と同時に、自分の愛する者のためにも存在していなければならない。憤懣や悲哀の対象さえ、愛に供される媒介の資格を与えられていた。そして彼は、彼女と向かい合っている時だけは、その苦悩の源である喧噪を忘れることができた。
二人の関係性。強烈に惹かれあう二人の物語、という構造は、先日読んだ三浦しをんさんの「ののはな通信」とも通じるものがあるな、とも思いました。相手の存在があるからこそ、自分も生きていける。
作者の平野さんは、特設サイトで以下のように語っています。
何かとくたびれる世の中ですが、
小説を読むことでしか得られない精神的なよろこびを、改めて、
追求したいと思っています。
そして、「何かとくたびれる世の中」は蒔野のセリフでも感じられました。
「ーー生きることと引き換えに、現代人は、際限もないうるささに耐えてる。音ばかりじゃない。映像も、匂いも、味も、ひょっとすると、ぬくもりのようなものでさえも。……何もかもが、我先にと五感に殺到してきては、その存在を目一杯がなりたてて主張している。……社会はそれでも飽き足らずに、個人の時間感覚を破裂させてでも、更にもっと詰め込んでくる。たまったもんじゃない。……人間の疲労。これは、歴史的な、決定的な変化なんじゃないか?人間は今後、未来永劫、疲れた存在であり続ける。疲労が、人間を他の動物から区別する特徴になる?誰もが、機械だの、コンピュータだののテンポに巻き込まれて、五感を喧噪に直接揉みしだかれながら、毎日をフーフーいって生きている。痛ましいほど必死に。そうしてほとんど、死によってしか齎されない完全な静寂。……」
蒔野はそれを、もう何年にもわたって、舞台上で感じてきていた。
この本は、五感の中でも、特に聴覚に響き渡る物語でした。読み終わったあとは、クラシックのコンサートが終わった直後のような、一瞬の静寂に包まれたような気がしました。思わず、拍手をしたくなる読後感でした。
▼強烈に惹かれあう二人の物語。こちらもオススメです。
先人の経験を買った。「自分の小さな『箱』から脱出する方法」
- 作者: アービンジャーインスティチュート,金森重樹,冨永星
- 出版社/メーカー: 大和書房
- 発売日: 2006/10/19
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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「おっさんから若者に贈る「経験を買う」6冊」という記事で「経験」は買える、というのを読み、1000円ちょっとで先人の知恵を買えるなんてありがたーい!と。
翻訳本特有の感じがちょっと苦手で、ページを進める手はゆっくりでした。
先のブログを引用させていただくと、以下のようなキーワードが出てきます。
「箱」をキーワードに、自己欺瞞→自己正当化→防御の構え→他者への攻撃→他者のモノ化、という連鎖が見えてくる。そもそもの原因は「自分への裏切り」であることも腑に落ちる。自己正当化の仮面がそのまま自分の性格と化し、いくつもの仮面を持ち歩き、自己正当化を正当化するため、相手の非をあげつらう。
あるビジネスマンに起きる出来事を、小説仕立てでストーリーは進んで行きます。自分も「あるある」と思いながら読み進めました。
本のまとめ
作者からの手紙、という形で本に挟まってあったカードに書いてあった内容です。
知っておくべきこと
-
自分への裏切りは、自己欺瞞へ、さらには箱へとつながっていく。
-
箱の中にいると、業績向上に気持ちを集中することができなくなる。
-
自分が人にどのような影響を及ぼすか、成功できるかどうかは、すべて箱の外に出ているか否かにかかっている。
-
他の人々に抵抗するのをやめた時、箱の外に出ることができる。
知ったことに即して生きること
- 完璧であろうと思うな。よりよくなろうと思え。
- すでにそのことを知っている人以外には、箱などの言葉を使うな。自分自身の生活に、この原則を生かせ。
- 他の人々の箱を見つけようとするのではなく、自分の箱を探せ。
- 箱の中に入っているといって他人を責めるな。自分自身が箱の外にとどまるようにしろ。
- 自分が箱の中にいることがわかっても、あきらめるな。努力を続けろ。
- 自分が箱の中にいた場合、箱の中にいたということを否定するな。謝った上で、更に前に進め。これから先、もっと他の人に役立つよう努力しろ。
- 他の人が間違ったことをしているという点に注目するのではなく、どのような正しいことをすればその人に手を貸せるかを、よく考えろ。
- 他の人々が手を貸してくれるかどうかを気に病むのはやめろ。自分が他の人に力を貸せているかどうかに気をつけろ。
「箱から出る」って?
この本では「箱」から出ることが大事とあります。
箱に入っている状態とは・・・
「自分が、閉じている状態」なのかなと私は理解しました。
被害者意識を持っていて、「なんで私だけが」と思っているような状態。
逆に、箱から出ている状態とは・・・
他者とつながっている状態。
自分の考えをオープンにしている状態。
「完璧」であろうとしてぐるぐる頭の中で考えている状態。
助けを求められない状態(=つまり、相手を「モノ」と見ている)
など。
この本を読んだ後にすぐ「箱」から出られるかと言ったら、そうではないと思います。
「箱」が存在している、ということがわかっただけでも収穫でした。
箱から出ているってどんな感じか?逆に、箱の中に入っているってどんな感じ?自分でその感覚を理解して、箱の外にいる時間を増やして行けるようになるのかなと思いました。
一度読んだだけでわからない部分も多かったので、何度か読み返そうと思います。
最後の鍵は、君なのだ。「漫画 君たちはどう生きるか」吉野源三郎、羽賀翔一
「君たちはどう生きるか」の感想です。
物語の主人公は、中学2年生の「コペル君」。
学校で起きるいじめ、友達の貧困などとどう向き合うか悩んでいます。
コペル君のメンター的な存在の「おじさん」との対話により、悩みを解決する糸口、自分が生きる意味を探して生きます。
200万部を突破し、上半期一番売れた本だそうです。
なんと、ananでも特集が組まれていました。
anan (アンアン)2018/03/07[君たちはどう生きるか]
原作「君たちはどう生きるか」日中戦争が始まる昭和12年(1937年)の出版です。
漫画と、おじさんからの手紙、という形で本は進んでいきます。
おじさんからの手紙は以下のような構成になっています。
- ものの見方について
- 真実の経験について
- 人間の結びつきについて
- 人間であるからには
- 偉大な人間とはどんな人か
- 人間の悩みと、過ちと、偉大さとについて
コペル君は感受性豊か。そして、成長することへものすごく貪欲。
おじさんとの交流をきっかけに、いかに、自分が経験した出来事から「気づき」を得るか?ということを考えています。
コペル君の経験に対して、おじさんが手紙という形で
その経験から気づきをえるための「ヒント」を示してくれています。
だけど、現実世界に生きる私は、自分が経験したことから何か「気づき」を得られるかといったら、必ずしもそうでは無い。
ましてや、ヒントをくれる人なんてそうそういないはず。
この本は、「君たちはどう生きるか?」という、
原作者、吉野源三郎さんによる問いかけで終わっています。
この問いかけを受けて、私は、経験から気づいたことを、ずっと心の中にとどめて置いて反すうすることが大事なんじゃないかなと思いました。
その時はたとえ何も「気づき」はなくとも、
時間がたって別の出来事と繋がって「気づき」を得られるかもしれない。
誰か友達に話してみたら、何か生まれるかもしれない。
「ラブという薬」の一説に、
自分の経験を心の中で反すうすることで「発酵」に繋がると書いてあり、それを思い出しました。
おじさんからのノートの一節にこうあります。
<P100 真実の経験について>
君もこれから、だんだんにそういう書物を読み、立派な人々の思想を学んで行かなければいけないんだが、しかし、それにしても最後の鍵は、ーコペル君、やっぱり君なのだ。君自身の他には無いのだ。君自身が生きてみて、そこで感じた様々な思いを元にして、初めて、そういう偉い人たちの言葉の真実の意味も理解することができるのだ。数学や科学を学ぶように、ただ書物を読んで、それだけで知るというわけには、決して行かない。
だから、こういうことについてまず肝心なことは、いつでも自分が本当に感じたことや、真実心を動かされたことから出発して、その意味を考えてゆくことだと思う。君が何かしみじみと感じたり、心の底から思ったりしたことを、少しもごまかしてはいけない。そうして、どういう場合に、どういう事について、どんな感じを受けたか、それをよく考えて見るのだ。
そうすると、ある時、あるところで、君がある感動を受けたという、繰り返すことのないただ一度の経験の中に、その時だけに止まらない意味のあることがわかってくる。それが、本当の君の思想というものだ。
そう。いつだって自分が感じたことや考えたことが全て。そこから始めるんだな、と。
原作本も読んでみたくなりました。
ゆっくりいこう。小さく話そう。「ラブという薬」星野概念・いとうせいこう
精神科医・ミュージシャンの星野概念さんと作家・クリエイターのいとうせいこうさんによる対談集「ラブという薬」です。
最近ぼんやりと考えていた、
- 「強いもの」「声が大きい人」に引っ張られてしまうってどういうことか
- SNSに発信することってどういう役割があるんだろうか
について書かれており興味深く読み進めました。
いとうさんは星野さんのところにカウンセリングへ通っており、そのカウンセリングの内容を本にした一冊です。怪我をしたら外科へ行くように、心の怪我をしたら、精神科へ行ったら良い。と提唱します。
精神科へ行くのはハードルが高くとも、「ちょっと今辛いんだよね」と誰かに打ち明けること。じっくりと、相手に身を傾けることが大事なのではないかと二人は語ります。
ただ、長く話しすぎると、自分を攻めすぎじゃうとか、とめどなく話し続けちゃうとか。そういう時は、悩みを箇条書きにするといいそう。
<P125>星野:頭の中を水にたとえるとしたら、頭が混乱している時って、水の中に悩みがいっぱい浮いていて、このことを考えたいのに、流れていっちゃう、という状態です。基本的に、水が濁っていない時にしか整理できないんですよね。その点、箇条書きにすることって、水に浮いているものを拾い上げて別のところに置いておく感じなんですよ。自分で自分を俯瞰するというか。
この「頭が混乱している状態」の説明が分かりやすく、まさに「水に浮いているものを拾い上げられた」感じ。
そのほか、精神科医が使っている、自分の考えのクセを捉える方法もすごく参考になりました。
冒頭に書いた、「強いもの」「声が大きい人」に引っ張られてしまうことについては、以下のように書かれています。
<P215>星野:自分の意見を強く持つとか、揺るがないようにするとか、そういう姿勢が求められすぎていますよね。自分の意見を持つことは、もちろん大事なことなんですけど、「○か×か」「右か左か」みたいな感じで、所属する派閥をすぐ決めようとする必要は無いと思います。そんなのすぐ決めなくたっていい。というか、そもそも意見がなくたっていいはずなんですよ。
いとう:やりとりの速さが重要視されるようになると、みんなの話題になるべく早く追いついた方がいい、という感覚に陥っていきがちだけど、それってどうなんだろう……。速すぎて自力じゃ追いつかないなってなったら、ものすごく注目されている人の意見をリツイートして、「俺も同じことを考えていた、俺が考えたも同然だ」みたいになりそう。それってリツイートを繰り返すことで、無意識的な事故の分裂や過大評価がおこっている状態だよね。
そうそうこれこれ!と思いながら読みました。
今はなんでも速さや効率が重視されて、「で、あなたはどうなの?」と問われている感じ。答えがでるものについてはいいのですが、答えが出ないものについて、インスタントに結論を出しちゃうのってすごく怖いな、と。結論が出ないことも大事にしたい。
また、SNSに発信しないことがもたらすことの豊かさ。「どこにもアップされない友達との一対一のなんの結論も無い会話」。人って無駄なことができる時、間違えなく安心している、「別に何も得られなくってもいいや、楽だし」ってリラックスしていると星野さんは話します。
コスパが求められる昨今ですが、無駄だけど好きなことをやる時、人はゆるみ、ちょっといい明日ができてるのかなと思いました。ブログに書いた、津村記久子さんの「ディス・イズ・ザ・デイ」を思い出しました。この小説は、サッカー2部リーグのファンの悲喜こもごもを描いています。得なのか損なのかわからないけど、好きなことに没頭できる幸せ。この小説と近い読後感を感じました。
特別じゃない日の積み重ね。「ディス・イズ・ザ・デイ」津村記久子
津村記久子さんの新刊「ディス・イズ・ザ・デイ」。朝日新聞で連載されたものをまとめた一冊です。とにかく素晴らしかった。サッカー2部リーグを応援する人たちの群像劇。日本各地にある2部リーグの架空の22チーム、全国津々浦々のファンの、生活や人生と、サッカーがリンクしている。
この本は、サッカーが好きな人はもちろん、国内旅行が好きな人にもおすすめ。サッカーのゲームが行われる日本各地、その土地の方言や名産物、食べ物の描写がリアルで、読んでいて日本各地を旅行している気分になります。実際に津村さんが全国各地を訪れたからこそのリアルさ。
表紙裏に、各チームのエンブレムのイラストがあるんですが、そのエンブレムが地元の名物をモチーフにしています。個人的には、青森のねぷたとりんごをモチーフにした「ネプタドーレ弘前」のエンブレムが好きでずっと見ていたいくらいです。
そして、津村記久子さんファンの方はきっとこの本は集大成なんじゃないかなと思うはずです。
この本が素晴らしいところ。サッカーのファン歴や熱量、関わり方が違っていても、同じサッカーファンとして等しく描いていることがすごくよかった。
応援しているチームの状況やルールは詳しく知らないけど、なんとなく好き、とか、雰囲気が好きとか。
<第1話 p32>
「降格? やばかったってこと?」
「そうだよ。よそのチームの結果にもよるけど、負けたら21位で入れ替え戦に回るか、22位で自動降格のどっちかだった」
そんなことも知らないでこいつは試合を観ていたのか、と貴志は少しあきれるのだが、それ以上に驚く。そんなことを知らなくても、好きなチームの応援はできるのだということに。
そういう「にわかファン」も、20年前からずっとある選手を追い続けているファンも、「サッカー」を好きな熱量は同じものとして描いている。
そして、「何かのファン」であることの喜びや苦しみをこの本では描く。登場人物は、なんでサッカーを観るんだろう、と自問自答している。なんで観てるんだろう?なんでファンなのに苦しまなきゃいけないんだろう?とも。好きであることの醍醐味ってここにあるんだろうなと感じた。それって無理に誰かと共感しなくてもいいんだろうな。
<第11話 p341>サッカー部の勝ち負けという所詮他人事に、なんだったら応援していると言っても多くの人は知らないかもしれないチームの勝敗に、女も男も年寄りも子供も、貧しい者も金持ちも、幸福な者も不幸な者も、そのどちらでもない者も心を悩ませ、喜んでいるという事実に対して、どうしてサッカーを観るのかについては答えが出ていない。
<第11話 p346>歓声を聞いていると、功は自分がただフィールドを眺めながら人々の声と熱を受信する装置になったような気分がした。そして瞬間の価値を、本当の意味で知覚しているような思いもした。人々はそれぞれに、自分の生活の喜びも不安も頭の中には置きながら、それでも心を投げ出して他人の勝負の一瞬を自分の中に通す。それはかけがえのない時間だった。
津村記久子さんのこれまでの作品を思い返してみると、かっこいいヒーローや大きな事件は出てこない。だけど、市井に生きる人たちが淡々と生きる姿を丁寧に描く。そして生きていると起きる、小さな奇跡にじんわりと共感させられる。大きな安心感がある。
<第7話 p226>あらゆる僥倖の下には、誰かの見えない願いが降り積もって支えになっているのではないかと、荘介はこの9か月を過ごして考えるようになっていた。
津村さんは本書刊行に当たるインタビューでこう答えている。
「働くことを書いてきたというよりは、人間の日常を書いてきたと思うんですよね。特別じゃない日の積み重ねの結果、ちょっとだけ何かが変わるっていうことを」
何かを好きになることで自分の人生が豊かになること。好きであることを肯定すること。小さな毎日を積み重ねることっていいなと思わせる一冊でした。